今日の取材のこぼれ話。
よく言われている「日本人は無宗教」ということについて、神職の方とお話しした。
たしかに多くの人が教会で結婚式を挙げ、人が亡くなれば仏式で葬儀をし、正月には初詣で神社を参拝する。その1週間前はクリスマスだ。
盆や彼岸には墓参りをし、秋祭りを楽しむ頃にはハロウィーンで仮装する子供や若者がテレビに映る。
それを「無宗教」という言葉で片付ける。
NHKの調査によると、日本人の約6割は、自分が「無宗教」だと答えている。
だが本当に無宗教なのだろうか。
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、いずれもそれぞれ崇める唯一の神がいる「一神教」だ。
仏教では「神」とは呼ばないが。仏陀=お釈迦様が最高位の悟りを開いた人であり、教えを説いた「開祖」として崇拝される。
聖なる存在として、唯一あるいは最高位に位置する神がいて、全ての規範となっている。
世界の主流を占める宗教以外でも、教祖を頂点とする信仰体系のものが多い。
また、起源が同じでも解釈の違いで枝分かれした宗教もあるが、それらはまた派生した時の指導者を教祖として崇める傾向にある。
先の調査にあった6割の日本人は、このような宗教とは距離を置いている。
だが、無宗教=信仰心がない、というわけではないと思う。
私たちは日々の暮らしの中で無意識にしている行動がある。
例えば、物を置くときには、多くの人がそっと置く。
放り投げたり、大きな音を立てて置いたりはしない。
それはきっと無意識に、「物にも神様が宿っている」「物にも気持ちがある」「乱暴に扱ってはかわいそう」という感覚があるからだろう。
人に迷惑をかけて知らん顔をしたり、人を騙したりする者には、「いつか罰が当たる」と思う。
神なのか、天なのか、人智を超えた「誰か」が見ているという観念が、体の奥底にあるのだ。
誰もいない部屋に入る時に礼をする人も多い。
それは目の前の空間に、神聖なものを感じ取っているからだろう。
信仰の有無とは関係なく多くの日本人が、あらゆる場所、あらゆる物に見えない力を感じて、大切にする。
神道に、八百万の神という言葉がある。
八百万の神が、私たちの精神に刻まれているのではないかと思う。
キリストもアッラーも仏陀も、八百万の神の一人だから受け入れられる。
宗教間の争いが起きにくいことが、平和な社会に貢献しているのではないだろうか。
今日お話を聞いた方が、「ほとんどの宗教は●●教と呼ばれますが、神道は“教”ではなく“道”なんですよ」と言った。
これはすごく面白い言葉だ。
神道は本当の意味では、宗教ではなくより良く生きるための自己研鑽なのかもしれない。
日本の社会は、宗教的観念をはるかに超越した無宗教の精神が支えている。