一昨日の夜、実家のテレビで「みんなの会議」という番組が放送されていた。
一部しか見ていないのだが、高校生ぐらいの若者が大人の識者っぽい人に質問していた。
「ウクライナが核を放棄していなかったら、いまはどうなっていたのでしょうか」
おお、なかなかいい質問だ。
興味を持って、答えに耳を傾けた。
だが、その識者は延々と、ウクライナ独立時の核放棄の理念を説くばかりで、若者の質問には答えなかった。
司会者が「答えになっていましたでしょうか?」と若者の顔色を窺うほどひどかった。
これは誰が考えても分かるが、ウクライナが核を持っていたらロシアに侵略されることはなかっただろう。
若者はこの番組に出演するぐらいだから、おそらく平和活動に勤しんでいるものと思われるが
明らかに核抑止力の有用性を意識して質問していたと思う。
その場で論理的に、明確に核抑止力を否定できていたら、心のもやもやは晴れただろう。
(と、勝手に推察する)
歴史を語る上で「たら」「れば」は意味をなさないのだけど
あえてウクライナ独立のときの選択肢を考えるとしたら
核を保有していては独立を認められないという状況の中で
核を放棄する代わりにNATOに加盟する(または核保有国を含む多国間で安全保障体制を構築する)
という手段を取れたらベストだったということになる。
もちろん、今だから言えることだし、当時の状況では不可能に近いアイデアだったろう。
結局のところ、核の脅威に対しては、現状では核で対抗するしかない。
そして、核保有国同士では紛争が起きない。
これはとても重要な事実だ。
たらればのついでに私見をもうひとつ述べる。
日本が本気で核軍縮に取り組むなら、
経済力があった頃に駆け引きをするべきだった。
例えば、核保有国以上の国連分担金は出さない
海外支援は、核保有国に対しては核軍縮と引き換えに行う
何というか、核はダメ、平和が一番と訴えているだけでは実現しないのだ。
これは明らかに、平和ボケによるものだと思う。