父の死後、法務局から相続登記を促す通知が届いた。固定資産税の納付書を検めると、二十ちかくの家や土地が列記されていた。所在地を見ると、実家が建つ下徳良(しもとくら)はわずかで、ほとんどが隣の上徳良(かみとくら)だ。地目の多くは山林だった。
納付書の番地を見ても、その山がどこにあるのかまったく見当がつかない。父が生前、私に「山林があちこちにあって、登記を見ないと分からない」と語っていたことを思い出した。
幼い頃は秋が深まると、祖父や父に連れられて、松茸採りのために山へ入った。売り物になるほど採れていた松茸は次第に探すことが難しくなり、いつしか誰も山に入らなくなった。電気温水器の便利さに慣れ、五右衛門風呂の湯沸かしに薪を使うこともなくなった。山は昭和の終わり頃から、四十年近く放置されている。
母と話し合い、山林を手放そうと決めた。行政書士に相談すると「住んでいる家も土地も資産も手放さなければ、相続放棄はできない」と、にべもない。しかし「今でこそ負の資産と言われているが、ほんの数十年前まで山林は財産だった。いつかまた価値を持つかもしれない。生かすことを考えて所有すればいい」と助言してくれた。
法務局で地籍図の写しを取ると、十枚ほどに収まった。文字と数字の羅列だったものが、平面の地図に変わった。しかし、道路と区割りと番地が載っているだけの地籍図では、見知った場所しか分からない。今となっては家の歴史を知っている唯一の人になった、九十三歳の大叔母を訪ねた。
大叔母は十歳で他家の養女となって家を出たので、山の場所までは知らなかったが、記憶を頼りに語ってくれた。山林が多いのは曽祖父、丈四郎の事業が関係しているという。丈四郎が家を継いだ当時、住居は上徳良にあった。人を雇って農地を広げていく中で、商才に長けた丈四郎は、事業のために「市」と呼ばれる下徳良に移り住んだ。その後は次々と山林を買い取り、さらには製材所を経営していたのだと聞いた。
丈四郎の没後、製材所は他人の手に渡った。私が子供の頃には形だけが残り、操業はしていなかった。今は往時の姿も消えて、駐車場になっている。
丈四郎が継いだ上徳良の本家は、戦後に手放すことになった。水田は祖父の代まで稲作を続けたが、今は養魚場の池として貸している。畑は母が細々と野菜を育てている。山林だけが長い間手付かずだが、丈四郎の生涯にふれると、受け継いで生かしていくことが供養になる気がする。行政書士の助言を思い出しては、山の未来を夢想している。
(令和6年度松江文学学校『えんぴつの花』掲載作品)