(この投稿は堀行丈治のnoteにも掲載しています)
今日は父の通院日。
月日が流れるとともに衰えていく父は、半月前から病院で車椅子を使わせてもらっている。
小康状態を保っているものの、食欲が減退しているので体力がない。
体重はずいぶん軽くなってしまったが、ようやく下げ止まったみたいだ。
今日の診断と点滴を終えて、市内の親戚宅を訪ねた。
父にとって姉のような存在の、(私にとっての)大叔母に会うために。
大叔母は祖父の妹だが、父と10歳しか離れていないので
父の幼少期は、まさに姉代わりだったようだ。
大叔母は足を悪くして外出がままならず、父も病で寝たり起きたりの生活。
しばらく会っていなかったので、大叔母はとても喜んでくれた。
普段は「しんどい」といってすぐに横たわってしまう父も、
椅子にかけてずっとしゃべっている。
何カ月ぶりかに父の笑顔も見られたし、冗談を言うくらいに機嫌が良かった。
大叔母は父に、食事のことや日常生活について助言をしてくれた。
その中で、
歳をとると『早く死にたい』と思う人がいるが、
死にたいと思っても死ねないし、生きたいと思っても生きられない人もいる。
今日の命は仏様にいただいたものなのだから、粗末にしてはいけない。
という意味の話があり、私の心に響いた。
以前、師と仰ぐ人からも
自分の体で思い通りに動かせない所がある。それは心臓だ。
自分の意思とは関係なく動き、止めようと思っても止められない。
しかし止まるときは、自分が動かそうと思っていても止まる。
と言われたことを思い出した。
いま生きている私たちは、自分の意志で生きているのではなく
神か仏か、何かによって生かされている。
生きている以上は、何かの役割があると思う。
たまたま不幸な境遇にあっても、何か自分にできることはある。
父にもきっと、いまの役割があるのだと思う。
もちろん私にも。
その答えは、今日は分からなかったけれど、
命があるうちは、常に前を向かなければと思った。